Book Review (now reading….) 『ホモ・ルーデンス』の「遊び」論からアメリカ大統領選挙を考える。

img_8650

アメリカ大統領選挙。
日本でも連日のようにどちらが優勢かを報道していました。
私も、開票当日、各州が、赤か青で塗られていくのを横目で追いながら仕事をしていました。
まるで陣地取りゲームのようだなあ、と思ったのは私だけではなかったはずです。

ちょうど今、読んでいる本、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」にアメリカの政治慣習と遊びについて書かれていたのを興味深く読んだので、まだ読了ではないけれど書き留めます。(タイミング的にね。)

私は政治は全くの門外漢なのですが、一国民、一市民として、こういう風に政治を見ることもできるんだなあと思いました。

本著を読み進めると、遊びー真面目、という概念の転回について理解できるようなので楽しみです。
こどもの遊びは、真面目な遊びだよなあ。

以下引用。(少し長いですが・・・)

英国の議会政治よりも、さらにはっきりしているのは、アメリカの政治慣習の中にある遊びの要素である。合衆国の二大政党のあいだにどういう政治的立場の違いがあるのか、これは局外者にはほとんど弁別しかねるのだが、この二大政党制度が二つの遊びのグループという性格を帯びるようになるはるか以前から、早くもアメリカの選挙運動は、大規模な国民的な遊びという形を完全にとっていた。

1840年の大統領選挙は、その後のすべての選挙のための様式を決定するものであった。その当時のホィッグ党と称していた党は、人気のある候補者ハリソン将軍を擁していたが、彼らには、何ら綱領というべきものがなかった。しかし幸運な偶然は、彼にある象徴となるものを与えてくれることになった。それは、この古き戦士が引退した粗木でこしらえられた開拓民の「丸太小屋」で、そこから引っ張り出され、この徴を押し立て、彼らは勝利を収めたのである。最大の叫び声、つまり最も大きな喝采の叫びを獲得した者を候補者に指名するということは、1980年の選挙に始まったが、このときその地位に選ばれたのがリンカーンである。

クラシックのコンサートに行くといつも思いますが、日本人って「喝采」するの苦手ですよね。(私が、なだけかも)

そしてこう続きます・・・

アメリカの政治の感情的性格は、開拓者の世界の原始的生活環境から生い立ったことを決して否定しなかったその国民性の中に、起源がある。党派に対する盲目的な忠誠、秘密組織、子供っぽい外形的象徴に対する欲望と結びついた大衆の熱狂興奮はアメリカの政治の中の遊びの要素に、何か素朴な、自発的な性格を与えているが、これこそ旧世界の最近の大衆運動に欠けているものだ。

(p419〜p420、ホイジンガ、高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』)

 

いろいろ、ありますね・・・。

 

話はガラッと変わって、、、

本日夕刻は、小さなの会を実験的に主催します。どうなるか、楽しみです。