大人の都合で保育を語っていないだろうか。

幼児教室の先生を週2日、幼児教育の研究員を週3日という働き方を始めて、半年が経ちました。

現場で子どもたちと接する密度の濃い〜時間と、新しい大学の知に触れるプロジェクトに挑む時間が、互いに良い影響の循環をもたらしてくれているな、と感じます。

 

例えば、研究員の仕事で保育指導案を考える時、幼児教室での子どもたちの姿や発言が思い起こされ、リアルなイメージが広がります。私の場合、机上で考えたことだけでは想像力が乏しく、実践を見ることが栄養分になるので、この時間の使い方は自分に合っていると思っています。

 

また、現場に立つ時、研究員の仕事で仕入れた新ネタを実践に仕込んでみることができます。(時々、ギアチェンジを誤って身体の疲れが抜けなくなることには注意しなければなりません。疲れて子どもたちの前に立つと、ほんの一瞬で、怖い思いをすることになるからです。)

 

幼児教育の実践と研究に触れながら、「待機児童問題」以外の、量ではなく、幼児教育の「質」の部分の議論が増えていくといいなあ、という思いを抱えています。もちろん、研究者・実践者の間で、質の議論は長らくされてきてはいますが、「量」の議論の声が大きいので「質」の議論が世の中に聞こえてきていないのではないかと個人的に思っています。

 

そんな思いを持ちながら、手に取った本『あらゆる学問は保育につながる 発達保育実践政策学の挑戦』の冒頭、秋田喜代美先生の序論では、幼児教育を取り巻く課題が整理されていました。

中でも、この一説に、私はドーンと突き動かされる思いがしました。

(2)保育を語る視座の問題
同時に、保育の問題だけではなく、保育を誰の視点でどのようにとりあげ、語るかという点にも問題がある。報道も含め、子を預ける保護者と預かる施設経営者という大人の論理や都合による語りが主流を占めやすい。子どもの最善の利益や幸福の補償、生涯にわたる基盤としての子どもの育ちの観点からの議論は多くはない。子どもたちの言葉にならぬ声やその子どもたちために骨身を削って働く保護者の声が社会一般や政策立案者に届きにくいのが現状である。
(『あらゆる学問は保育につながる 発達保育実践政策学の挑戦』2016、秋田喜代美監修 より
序論「今「保育」を考えるために」、秋田喜代美、p4)

大人の都合で保育を語っていないか?そこに子どもの育ちの視座はあるか?誰のための保育か?もう一度、捉え直しながら、私自身にできる一歩を進めていきたいと思います。それは、研究プロジェクトの中に、または、子どもたちと向き合う時に、心に置いておきたい問いだと思います。

本著からは、まだまだ紹介していきたい点があるので、数回に分けて紹介していきたいと思います。