『カオスモーズ』フェリックス・ガタリ、読了。(と言っていいのか?)

自分では絶対選書しなかった本。
読了と言っていいのかわからないけれど、まあ、とにかく最後までたどり着いた。

一文も読めない(日本語ワカリマセーン)、1パラグラフに複数回スマホで意味を検索しなければならないどうしよう涙、みたいな状態を繰り返しつつ、最初は半ページ読んで寝落ちてたけど、だんだん読める?ようになってきている自分がいた。

私の理解では、おそらく、本書では、冒頭の以下に書かれたことを、言葉を変え、視点を変えて、繰り返し述べているのかな、と思った。

1主体感の生産をめぐって p7より

「主体感というものは実のところ多元的であり、ミハイル・バフチンの言葉を借りるなら多声的でもあるのです。主体感には、自ら決定要因となり、一意的な因果性に沿って他の全審級をあやつるような支配的審級はいっさい含まれないのです。」

キーワードは、本文にも太字で繰り返されている、以下。

主体感
宇宙
領土
シニフィアン
オートポイエーシス
リトルネロ、、、、

以下、自分のメモとしてドッグイヤーしたところを記録する。

●主体感の暫定的定義
として、ガタリは下記のように記している。

1主体感の生産をめぐって p19より

「現代史に目を向けても、機械による記号生産に、あるいは幼児のエソロジー、社会のエコロジー、そして精神のエコロジーに目を向けても、見出されるのはいずれの場合も決まって全体的固体化の問い直しです。主体的固体化は、たとえ従来通り残されたとしても、必ず言表行為の集合的アレンジメントによって突き上げられているはずだからです。現段階で最も包括的なものとして私が提案することのできる主体感の暫定的定義は次の通りーーー「個人そして/あるいは集合的な諸審級が自己参照的な実存の領土として浮上し、こちらもやはり主体的な他者性と隣接あるいは境界画定の関係に入るような位置に立つことを可能ならしめる条件の総体。」一定の社会的、記号学的状況で主体感が固体化することはよく知られています。つまり個人が自己責任を負わされれ、家族の習慣、地域の風習、法の定める規則に支配された他者性との関係のただ中で自分の置かれた位置を明確にするのです・・・。別の状況では主体感も自ずと集合的なものに変わりますが、だからといってそれは主体感が社会一辺倒になることを意味するわけではありません。この場合、「集合的」という語は個を超えた社会体の方面でも、個人の手前にある前・言語的強度の方面でも展開を見せ、明確に限定された集合の論理よりも、むしろ情動の論理に属する多様体の意味で理解されるべきなのです。」

●ラ・ボルトの精神病棟の調理場の例

読んでいて、一番、ふーんと思ったところかもしれない。

3 スキゾ分析によるメタモデル化 p113より

「一つ例を挙げてみましょう。ラ・ボルトの精神病院では、調理場が病院全体のサブ・ユニットになっています。そしてこのサブ・ユニットは、機能、社会、主体感の面で、異質性の度合いが高い次元をいくつも組み合わせています。領土が自閉し、ステレオタイプ化した行動と態度の場に成り下がることもあるでしょう。その場合、各人は機械的にありきたりのリトルネロを演じるしかない。しかし、同じ領土が生命を得て、実存の凝集隊や欲動の機械を発動させることもあるのです。しかもこの機械は口唇だけにかかわるものではありません。こうして欲動の機械は、活動に参加する者にも、様子を見に来ただけの者にも、同じように影響を及ぼして行くのです。ここまでくれば調理場もちょっとしたオペラの場面に姿を変えます。」

・・・この続きが面白い。

●おまけ。逃走線
これまで不勉強で、ガタリもドゥルーズも読んでこなかったので、逃走線に関する、この漫画が理解を助けてくれた。

逃げは悪じゃない!何かを生み出す創造的行為 ゆるっと哲学(4)
https://www.lettuceclub.net/news/article/1004653/p2/